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2007年 7月 28日 (土)

ドストエフスキー「カラマーゾフ兄弟」と歴史的「大虐殺」のこと


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ドストエフスキー「カラマーゾフ兄弟」の「大虐殺」のサブ・エピソートは西洋と東洋の歴史認識の異なりを教示します。

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「兄さんは変な顔をして話をしていますね」と不安そうにアリョーシャは言った。「まるで気が抜けたみたいな」
「話のついでだがね、僕はつい最近モスクワであるブルガリヤ人からこんな話を聞いたよ」と弟のことばなぞ耳にはいらないように、イワン.フョードロヴィッチは続けた。「あそこでは、つまりブルガリャではトルコ人やチェルケス人が、スラヴ族の蜂起を恐れて、いたるところで悪虐の隈りをつくしているんだそうだ。家は焼く、人は斬り殺す、女子供には暴行を加える、捕えられた男たちは耳を塀に釘づけにされたまま朝までほったらかされて、朝になると絞首刑にされる等等というわけで、どれもこれも想像も及ぱないくらいなんだ。実際、人間の残忍な行為をよく『野獣のような』と言うけれど、これは野獣にとってはおそろしく不公平で、しかも失礼な言い草だよ。野獣は決して人問のように残酷にはなりえない。あんな芸術的な、技巧的な残酷なまねなんかできるもんじゃありゃしない。虎はただ噛むとか、引き裂くとか、そんなことしかできるもんじゃない。人間の耳を一晩じゅう釘づけにしておくなんて、たとえ虎にそんなことができるにしても、とてもそんなことは考えつけるもんじゃないよ。ところがこのトルコ人ってやつは子供を苦しめることに官能的な喜びを感じているんだからな。短刀でもって母親の胎内から胎児をえぐり出すなんてのは初歩のほうで、ひどいのになると、母親の目の前で乳飲兄を空中へ放り上げて、それを銃剣の先で受け止めて見せるというんだ。母親の見ている前でそれをやってのけるというのが、主としてやつらの快感をくすぐるわけなんだね。ところで、もう一つ非常に僕の興味を惹いたシーンがあるんい7こ。いいかね、わなわなと震えている母の手に抱かれ,た一人の乳飲児、そのまわりには侵入して来たトルコ人が群がっている。やつらは愉快な遊びを思いついたんだ。みんなで子供をあやしてなんとかして笑わせようとしてしきりに笑顔を見せている。計画は図に当たって、やっと乳飲児は笑い出した。そのとき一人のトルコ人がピストルを取り出して、その顔から二十センチと離れないところからじっと狙いをさだめる。赤ん坊はうれしそうに大きな声で笑いながら、ビストルを取ろうとして小さな手をのぱす。すると突然その芸術家はまともにその顔を狙って引き金をひき、小さな頭を打ち砕いてしまう…。実に芸術的じゃないか、そうは思わないかい? 話は別だけれど、トルコ人てやつはなんでも甘いものがひどく好きだそうだね」「兄さん、なんだってまたそんな話を?」とアリョーシャは尋ねた。「僕は思うんだが、もしも悪魔が存在しないとしたら、つまり人間がそれを創り出したってことになるんだが、きっと人間は自分たちの姿かたちに似せてそれを創り出したにちがいないね」「そんなことを言えば、神様だって同じことじゃありませんか」「お前は『ハムレット』の中のポローニアスのせりふのように、びっくりするほどうまくことばをはぐらかすじゃないか」とイワンは笑い出した。「お前はうまく僕のことばじりを押えたね、いや結構、なかなか愉快だよ。人間が自分の姿かたちに似せて創り出したものなら、お前の神様はさぞ立派なものにちがいない。ところでお前はいま、なぜ僕がこんな語をするのかって聞いたね? それはだね、僕はある種のちょっとした事実の愛好者で、その蒐集家なんだよ。それで、実は、新聞だの人の話から手当たり次第に、ある種のアネクドートの類を書き抜いては集めているというわけなんだ。もう立派なコレクションが出来上がったよ。もちろん、いまのトルコ人の話も、そのコレクションにはいっているわけなんだ、しかしこれはみな外国物でね。僕のとこには国産のやつもあるんだが、中にはこのトルコ人の話よりずっと傑作なやつもある。
−−−−−−訳 小沼文彦−−−−−−−−−−−−
 これは真に、旧日本軍の「三光」のありさまです。東洋にては、往々にして旧日本軍の特異な残虐さと説かれるそれも、、「カラマーゾフ兄弟」が必読書の欧米の文化では、「その歴史的事実、ドストエフスキーが「カラマゾフの兄弟」で語っていたね。戦争は残虐だね。」風な普遍的な感想が一般的なのかも知れません。


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