◎まえがき

なぜ「理想の図書館」なのか ―――  ピエール・ボンサンヌ


 「20あまりの文字記号のありうる組み合せすべて(かなり膨大な数字にわたるが、無隈ではない)、要するにあらゆる言語において表現しうるすべてのものが収まる巨大な図書館。といえば、ここにはホルヘ・ルイス・ボルヘス ― 文学におけるコスモポリタソ的傾向を代表する盲目のスフィソクス ― の短編「バベルの図書館」のテーマがおそらく浮かび上がることにたるだろう。秘教的色彩をおびていて、目のくらむような体験をもたらすこの短編は、すでにわれわれの本の神話学に属している。だがそれとともに、とかく忘れがちだが言っておかねばたらないのは、同じくボルヘスが、彼の得意とするシソメトリーの法則にしたがい、もうひとつ別の短編「鏡と仮面」を書いていることである。これは、ただ1語だけで詩全体を包含するようた特別の語を追い求める詩人の物語である。作者の言によれぼ、「これはまさに『バベルの図書館』の対極をなす。無限の書物ではたくして、ただ1語、無限の語があるのみたのだ。」

 さて「理想の図書館」をっくりあげようという発想と欲望がどこに生じるかといえば、この2種類のユートピァが交錯するはずの現実にはありえない地点というしだいにあいなる。可能な書物すべてに通じる道をひらく百科事典的た使命とそれ自体で全体を包括する必要不可欠な一冊の書の探求との折り合いをつげること。すべて書物へのやみがたい情熱をもった人々は遅かれ早かれこの解決不可能な問題に直面するとしても、この問題そのものがきわめて散文的た現実に突き当たらざるをえない。要するに時問は限られているのである。とくに本を読まずに生きてはいけないような人々にとってはそうなのだ。計算によれぽ、規則正しく1週問に1冊の本を「消化する」人間にしても、60年間で3210冊の本を「呑込む」だけである。1週間に3冊とすれば、その場合は稀にみる読書狂ということになるが、それでも1万冊を超えはしない。興味をそそられるのはもとより、判型もまちまち、いろいろな国のことばで書き記され、魅惑的な主題を取り扱い、驚くべき夢を語る本が無数にあるというのに、これはほとんど問題にたらない数字である。

 何世紀にもわたってかき集められ、いまもなお価値が高まり続げる財宝毎年フラソスでは15000冊の新刊書が出版される、このかげがえのない財宝を手にするにはどうしたらよいのか。これを手中におさめ、享受するにはどうすれぼよいのか。本をあまり読まない人とて、行き当たりばったりの選択では限界があると感じるにちがいない。そのときどきの好奇心を思う存分に味わってしまえぼ、後はある種の分類整理の必要が生じる。個人の書棚でも公共の図書館でも分類整理はことのつねである。「理想の図書館」をつくりあげる、その試みは、必要ながらも無償の手続き、これでょいということはありえずにっねに挑戦されねぼたらないバラドックス、偶然が大きく影響する遊戯としてたちあらわれることにたる。
 1950年、レイモソ.クノー(ボルヘスと並ぶ本書『理想の図書館』のもうひとりの保証人)は遊び心からこの試みに挑んだ。アソケートという方法でこの仕事にとりかかったのである。われわれもまたこの冒険に挑戦してみた。さまざまな分野にわたる多数の専門家に綿密なアソケートをおこない、また当然のことながら新たにゲームの規則をもうけてみたのである。規則の原理が盗意的だと思われる場合があり、その適用にあたって煩墳と思われる場合が多いかもしれないが、規則が存在しなげれぼ、この計画の遂行も不可能となったであろう。さらに言えば、「図書館(ビブリオテーク)」のギリシァ語の語源(biblion=書物、棚)に遡れぼ、そこにはある種の整理という意味があったのではないだろうか。

 本書の具体的な使用法は九ぺ-ジに記載されている。ここでは一貫して守られた法則の基本線をしめすにとどめよう。結局のところ、いっも同じことだが・…細かい点でごまかしたところ ― それが重大かどうかは慧眼なる読者に判断をまかせよう ― はあり、いくっかのいたずらというべき点1それをわざとやったとい亘言うっもりはたい ― はあるが、それを別とするならば法則は守られたのである。
 本書の出発点となったのは、書店、学校、ジャーナリズムたどの各場面でっねづね繰り返される要望に具体的に応えようという意図であった。それぞれの分野で基本的に読むべき本はなにか。
立体の組み合せ作業のように読書を進めるやり方を提案しようとしたのもこのようた理由からである。たとえぽ、ここにアメリカ小説を知りたいと思っている読者がいるとしよう。本書は基本的な十冊の本を選び、それにコメソトを加える。これが25冊(最初の10冊を含む)になり、次に49冊(25冊を含む)になる。 なぜ49冊なのか。この数字には7の7倍という魔術的性格がそなわっているからというよりも、ひとっだけ空席(50冊目)をもうげて、全部で49の章ないし棚を有する本書『理想の図書館』の遊戯的で開かれた性格を強調しようと考えたからなのだ。どの部門をとってみても、アルファベツト順の作者の配列にしたがって書名が並んでおり、10冊、25五冊、49冊という3分割を除けばいかたるヒエラルキーもここには存在していない。
 とりあげた本は現にフラソス語で読むことがでぎるものに限られている。それでもなお、埋め合せの処置として、フラソスだげではなくほかの国々の文学に大幅なスペースを与えようと望んだ。結果的には、選ぼれた本の4分の3が翻訳書となった。できるだけ厳密に法則にしたがうには数々の離れ技が必要となったが、その法則のもうひとつの重要な点は以下のことだった。すなわち49冊の本の選択にあたり、どの部門においても一作家の登場は一回かぎり、そこで用いられた書名はほかの章でふたたび用いることができないという点だ。議論の余地があるだろうか。もちろんその通りだろう。しかしながら、このような禁止事項によって、ほとんどボードレール的といってもよい「交感」(コレスポソダソス)に満ちた理想の図書館を築かねばならなくなるという少なからぬ特色がもたらされたのである。要するに、およそかけ離れた基準を混ぜ合わせ、地理あるいは歴史などの学問形態に文学作品をとり混ぜながらグループ化のやりなおしを試みることで特色が出るようになったのだ。ことに特徴的なのは、誰が見ても当然という作品を並べ立てるのではなく、ひとりの作家の作品をさまざまな観点からとりあげる必要が生じた点である。シェイクスピアの場合を例にとってみよう。この作家は『ハムレット』の場合は「演劇」の項目に入っており、『ソネット』の場合は「イギリス文学」に入っている。『真夏の夜の夢』の場合は「幻想と魔法」だし、さらに思いがけないことには、『リチャード三世』の場合などは「政治」の部門に分類されており、プラトソの『国家』、マキャヴェリの『君主論』、モソテスキューの『法の精神』と肩を並べている。シェイスクピアがそれなりに権力の観察者であり、註解者であり、さらには理論家であったことを誰が否定するだろうか。
 本書『理想の図書館』を補う2種類の索引は、いかたる場合においても、作者と作品がそれぞれどの棚に分類整理されているのかわかるようにするものである。ある箇所で見あたらないとしても別の箇所で見っかる場合が多いはずだ。そのほか数多くのコラム年代、引用、観点、文献目録、お遊びは本の選択にっいての解釈とその補足をする役目をもっている。
 書物の選択そのものにっいて正当性を云々しはじめれぼ、議論の泥沼におちいることになりかねない。選ぼれて当然と思われる著作が数多くあるとしても、好き嫌いで選ばれたものも、独断的に排除されたものも少なくない。これは議論の対象とたるようなものではない。ただ言えるのは、この企画にかかわったこの二年問というもの、孔子の教えがいまも生きていると確認できたことである。すなわち、まことの教養とはおのれの無知がどれほど大きいかを知るにある・・・・ということを。
 最後に疑念が残るが、これは問のかたちで提出しておこう。本書すなわち『理想の図書館」は理想の図書館の本棚に並ぶことにたるだろうか。あるいは、大気圏を離れてしまっても地球と交信をつづける人工衛星のように、もはや別の世界に属してしまっているのだろうか。おそらくはボルヘス好みの謎だといえよう。


「理想の図書館」より